【発見】本能寺の変、織田信長の長男が自害する様子生々しく記す…江戸時代の文書に公家の体験談「かゝるふうんにあふはちからなし」

1: 煮卵 ★ 2024/01/18(木) 14:48:44.67 ID:1ZBC6Mgv9
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年)を巡り、公家が後に天皇に語ったという体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する「陽明文庫」(京都市)で見つかった。
変から100年前後たった文書で真偽は不明だが、信長の長男・信忠が自害した様子が生々しく記されていた。江戸時代の公家社会で変が重大視されていたことがうかがえる。
(多可政史)

陽明文庫と東京大史料編纂(へんさん)所による調査で、同所の遠藤珠紀准教授(日本中世史)が確認した。

史料には、当時、左近衛中将(さこのえちゅうじょう)として朝廷に仕えていた白川雅朝王(まさともおう)(1555~1631年)の体験談が記されていた。雅朝王が後水尾(ごみずのお)天皇(1596~1680年)に度々語っていたという話を、近衛家当主の基煕(もとひろ)(1648~1722年)が古参の女房から聞いて書き留めた。成立は変から約100年後の17世紀後半とみられる。

信忠は本能寺の変の際、信長が造営し、後水尾天皇の祖父にあたる誠仁(さねひと)親王に譲った二条御所に籠城し、自害した。

史料によると、雅朝王が誠仁親王を御所の外に逃した後、信忠は最期に、「かゝるふうんにあふはちからなし(このような不運にあったのは力ないことだ)」「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ(神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように)」などと述べたという。

このほか、親王が御所を出る際、敵方の武士も頭を垂れたことなどが記される。

遠藤准教授は「雅朝王が後水尾天皇に誇らしげに繰り返し語っていたのでは」と推測。
基煕は最後に「親しくない人に見せるべきではない」と記しており、「外に漏らすべきではない重要な情報と認識していたのだろう」と指摘する。文書の全文は昨年刊行された「陽明文庫講座図録5」で紹介している。

続きは
https://news.livedoor.com/article/detail/25708186/
no title

「トイレだけ借りるのも悪いからガムでも買っていく」コンビニ店員「やめろ」←実際どうなの?
続きを読む
Source: 哲学ニュースnwk

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク